昭和47年09月09日 朝の御理解



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 人間と身代それから達者、これは人間の幸福の一番大切な条件だと思うです。どんなにお金があっても、子孫を絶ってしまう様な事ではいけませんし、またどんなにお金はあっても、病気をしておったんではつまりません。そこで私は人間と身代と達者と、こういう事は、まず根本になる者が、人間だと思うですね。人間とここで仰るのは、人物と言うことです。人物が一番大切だということです。人物が良うなからねばいけない。と言うて、ここでは、その人物と言うのが、ちょっと意味が違うようですね。
 お互い信心によって、その人物が磨かれてくる。信心によって、本当な事が分かる。信心によって、本当の事が分かって、本当な人になるという事だと思う。いわゆる、真の人です。真の人と言うこと、ここでは身代。だから当然信心によって真の人にならせて貰う。例えば修行させて貰う精進をさせて貰うという事になると、こりゃもう当然神の大恩も分かってくる。神様のおかげという事が分かってくる。
 自分という人間は、こんな人間じゃなかったけれども、信心のおかげで、自分ながらほとほと感心するほどしに代わっておると言うのですから。信心に寄らなければ、だから生まれつき人物が良いのとは違う。ここで仰る人間と言うのは。親鸞聖人のお弟子の中に、弁円と言う山伏がおりましたね。この人は、いわゆる、自分達の信仰と申しますかね、そういうものが、新しく勢いを増して来た、南無阿弥陀仏の信仰ですね。いわゆる、それに押されて来たものですから。親鸞聖人を亡き者にしようと企んだ訳です。
 そしてあの手この手を使って、殺害しようと致しますけれども、どうしても殺害する事が出来ません。ある夜などは、もう今夜こそはと、親鸞聖人が、この道を通られ、この山を越えられるということを聞いて、一晩中掛かって、殺そうと致しますけれども、果たしません。峰伝いに、南無阿弥陀仏の声がしよるかと思うと、下の、谷の底の方の道を歩いておられる。下へ下ってくると、上の方に、南無阿弥陀仏のお声がする。とにかく、一晩中追いまわして、とうとう狙う隙がなかったと。
 そこで、その親鸞聖人のお徳に驚いて、そして、一切を懺悔して、お弟子にして下さいと言ったお弟子なんですね。名を弁円と言った。その人が、ある日、師匠の帰りが遅いから、途中まで、出迎えに出た、聖人様を。それが、ちょうど、数年前に、現在の師匠であるところの親鸞を狙った場所へ来かかった時に、その感懐と申しますかね、昔の事を思うて、そして、ありがた涙に暮れる。その事を歌にしておりますですね。「この道は、今も昔も変わらねど、変わり果てたる、わが心かな」と詠んだという事です。
 私が今日みなさんに言うのは、生まれつきあの人は素直であるとか、人物であるとかと言うのであってはね。だから、天地の大恩が分かるとか、神のおかげが分かるという事じゃないです。これはもう、どこまでも、今、私が申しましたのは、親鸞宗ですね。いわゆる、真宗仏教の例を取りましたけれどもです。これはもう、金光教の信心をさせて頂いて、真の人を目指させて貰う、真の人間にならせて頂こうということになれば、当然、神のおかげが分かり、神の大恩が分かる。いわゆる、天地の大恩が分かる。
 だから天地の大恩の中に、私共はあるのです。此の宇宙全体の中に遍満しておるというか、神の恵みと言うものをです。私共の信心の度合いによって、それを感得する事が出来る。感受する事が出来る。そこにはあれもおかげこれもおかげ。一切が有り難い一滴の水でも、押し頂きたいほどしの心と言うものが生れて来るのだ。それを私は本教的信心の情操とは、天地の大恩を分からせて貰うて、神恩報謝の心が湧いてくる。それを私はお道の信心の情操だという風に、この頃から申しておりますですね。
 この思いはいよいよ本当だなぁと、最近思わせて頂くようになりました。そこでです結局人間が出来るということ、信心によって真の人にならせて頂くということ。なってしまうという事は出来ません。一生かかってその事を願い、その事を精進するという事なんです。これが真の人の手本だ見本だといった様なものを、目指させて頂いても恐らく私共は、足りないところだらけの私どもであるのでございましょうけれども。その真の人を願うということ。真の人にならせて頂こうという。
 それが今日ここで言う人間。だから何と言うても、人間が根本になる。私は最近色々頂いた事の中から、それを結論してみると、どういう事になるかと言うと。様々な教育と言うのがあります。その、色んな教育を受けます。例えば娘さんであれば、娘さんとしての。または、お嫁に行かなければならんから、お嫁に行くための躾と言うものを致します。教育を致します。満七歳になれば、小学校に入らなければならない義務が生じてきて、そして学校に行って学問の教育を受けるのです。
 いわゆる教育という事。その教育の一番根本になるのは宗教だと思うですね。宗教と言うても私はお道で言う所の信心。神様のおかげを分かるという教育。神の大恩を分かるという教育。これがあらゆる教育の根本になるものだという事。どうでもこの事が世界中の人間氏子の上にですね、ここん所を分からせられるおかげを頂かせて頂かにゃならんと言うのが、和賀心時代を世界に創ると言うことなんですね。
 どういう素晴らしい学問を身に付けても、どういう行儀作法を体得させて頂いても、人間が出来ていなかったらです。普通で言う人間じゃないですよ。今日私が信心によって生れて来る人柄です。人物です信心によって吾ながら、変わり果てたる自分である自覚が出来るほどしの人間です。そういう教育が全ての教育の根本にならなければならないと言うことをね、こりゃもう声を大にして私は世界に叫んで行かなければならないと思うですね。どんなに頭脳明晰と言うてもです。
 晩年になっていよいよ淋しゅうなって、自殺行為に出るという人達が沢山あるでしょうが。西洋あたりでは色んな制度が、まぁいうならば完璧と言うほどしに出来ておる。歳を取っても不自由せんで済むほどしの楽な制度が出来ておる。ところが年寄りの自殺者が多いのは、西洋だと言われております。そこにただ金とか物とか、設備だけではどうにも出来ない問題があるんだという事です。心という事を忘れておる。
 真の人にならせて頂こう。それを信心の御教えと言うのは、どこまでも天地の道理、天地の真理を元にするところの教育なんですね、お道の信心は。ですからそこん所を分からせて頂いて、神のおかげを分かり、神の大恩が分かってくるという教育なんです。何々博士とか、何々文学士といった様な人達がです。ついこの頃も自殺をなさった方があるでしょうが。あれは川端康成さんでしたかね。世界最高の名誉に輝く、勲章を頂かれるほどしのおかげを頂きながらです。
 どうにも出来なかった。ガス自殺しなさった悲しい事ですよね。神様に頂いた命を全うし得ないという事は、私は悲しい事だと思うですね。だから本当にそこん所を目覚まさせて頂いてです。教育の根本になるものは真の信心だと言うことです。それを私共がまず頂いて、それを自分の周囲に広げ伝えていくという責任があると思うですね、お互いまず何と言うても、だからおかげおかげと言わずに、信心信心と言えと言うのも、そういう事です。信心を頂くという事は、まず人間が出来るという事なんです。
 だからこそ改まりが大事であり、信心とは、本心の玉を磨くものぞやと、教えられる訳であります。私は今朝方お夢を頂いた。それが今数学ですね。私は数学が一番苦手で、もう昔から子供の時から、良い点を取った事がないですけれども。当時は算術と言いよった。国語の事は読み方とかね。という風に言い方が違う。算術。もう何時も大坪君のは、算術が試験の時に、ここまでは出来ておるのに、ちょっとしたことで答えが違うておる。だからもう何時も乙ばっかりだという訳なんです。
 ところが何十年経った今日ですね、こりゃ大坪さんが言いよった、大坪君がやっておった、これは全部正確に合うておったという訳です。だからもう何十年分をこりゃ何とかして返してあげんならんと言うようなお夢でした。子供の時から算術は乙ばっかりじゃったけれども、こりゃ本当に大坪君にお詫びをしてです。甲ばっかりのつを乙に付けておった。先生達やら、他の者達のが間違うとったというお夢じゃった。
 面白いお夢で、そして私は今日この七十八節を頂いてみてです。私は私の生き方と言うものが、間違ってはいなかったという事を感じました。随分非難もされました。あぁ言う信心は、間違うとるとも言われました。けれども結局は私の生き方、私の信心が本当だったと。と言われる時代に段々、なってきたのではなかろうかという風に思わせて頂いた。それを具体的な風に申しますとね。小倉の桂先生の御教えの中に、「親に不孝をして、神に孝行をして後、親に孝行をする氏子がある」と教えられた。
 親に不孝をして神に孝行をし、その後に親に孝行をする氏子がある。親に孝行をして、神に不孝をして後に、親に不孝をする氏子があると、二通り仰っておられる。後からの分はね親に孝行をする。そして神には不孝をする。そして結局は親に不孝をしておる氏子があると言うのです。具体的に今日私がみなさんに言おうとしてる事は、この事なんです。段々信心が苛烈になって参りました。もう仕事も何もかにも打ち捨てて、ただ神様神様、信心一途。
 ところが信心一途私に信心を進めておった人ですらが、そりゃ大坪さんあんまりだと言う様になった。余りに信心に打ち込んで行くものですから。そして例えば大坪さんの信心は素晴らしいと言うておった人までも、大坪の信心はこの頃間違って来たのだという風に言うようになって来た。肝心要の両親までがです。あんたの信心を止めようとは言わんけれども、商売をさせりゃ一人前の事は出来るのに、商売もせずに破れ服着て、破れ鞄下げて破れ靴を履いて、今日は西今日は東と言うように。
 お話をして廻っとるという時代なんですから。仕事は仕事でやって、そして信心したらどうかと言うておりました。もう最後に父がねある晩福岡から帰りましたら、何か威儀を正して私に言うんです。今のごたる状態ならこりゃ愈々、家は潰れてしまうと言うわけです。あんたが今のごたる状態ならば、とても親を見てくれる事も出来んだろう。だから今のうちに、私段お四国参りなっとんせにゃと申しました。こりゃもう私にとっては大変な脅迫。父が、脅迫した訳でしょうね。
 そげん言うたなら、ちった信心の方を緩めてから仕事でん、商売の方でん身を入れると言う積りだったかも知れませんけれども。とばっかりは言われん。やっぱ本当にそりゃ実感だったかも知れません。お四国参りをするという事は、貰うてでんさるかんならんと言う意味の事なんですよ。それを聞きよりましたら心の底から湧いてくるものは、可笑しさでした。もうあんたばっかりは、どげん言うたっちゃ笑うちからち言いよりました。さぁ御祈念御祈念と言うて。
 そう言うておる両親を御神前に連れて行って、御祈念させて貰いよった。そして御祈念の後にご理解を頂きますと。そう言うておった両親も、ほんならまぁひと頑張りと言うような事が続いておる時代でした。ですから本当に親孝行親孝行と、例えば私の信心は親孝行から始まったと言うても良いくらいに、親を大事にせんならんと言うのが。親に首に袋をからわせるほどしの思いをさせると言う事がね。
 親孝行であるという事はありませんけれども。だからここで皆さんが、分かって頂かにゃならん事は、親に不孝をして神にまで不幸をするなら、こりゃもう愈々親不孝者です。親には不孝をしておるけれども、神様には一番のお忠義者にお取り立て頂きたいという、一心の信心なのです言うなら。親に不孝をして神に孝行をして行くという事態。是は親だけではありませんでした。家内にも言いよりました。もう世界中で最愛と言うなら、お前より他にはなかと私は。
 けれども大切な事というならば、両親が私は世界中で一番大切だと。愛しておるという意味に於いてはお前だ。大切だという事は両親だ。だから両親の言う事に背くとか、両親の言う事、親不孝でんするごたる家内ならば、俺はお前とは何時でん別れると言いよりました。こりゃもう本当に言いよりました。今時まぁ嫁後に惚れるのは良いけれども。親まで捨ててから、親と別れようち言うごたっとどんが多かでしょう。現代の考え方は。親と別々に暮らすち。おかしな話じゃね。
 なるほどある意味では、理想的かも知れません。合理的かも知れません。けれども信心ばかりはです。超理想境なんです超合理的です信心は。そして親にまた言うておりました。最愛は家内大切は両親だけれどもです。けれどもそういう最愛の、または大切な親が言うても、神様の仰せだけには背かれないと言うのが、私の信心のこりゃもう根本精神でした。だからまだ分かっていないから。私にどんなに両親がです。そういうひどい事を言うても、心の底から湧いてくるのは可笑しみでした。
 もうあんたどんが分からんもんじゃけん、そげなこつばっかり言うちからと言うて笑いよった。どんこんされんごと可笑しかったです。こげな大事なこつを言うとに、笑うちからち言うぐらいでした。そしてさぁ御神前に出て、御祈念御祈念と言うて、御祈念をさせて頂いて、御理解を頂くと、家内も両親も納得して。さぁそんならまぁ一頑張りのと言うて、頑張ってくれました。
 昨日若先生が今度の出来よるお書物に、写真がずっと入るんです。例えば今日の御理解なんかの事を考えたんでしょうね。家柄人筋となって三代続いたら、神の機感にかのうた氏子と言った様な、今日のこの御理解の所を思ったからでしょう。長男の結婚式の時に私共が、三夫婦だけで写っておる写真があります。八十九十の両親。それに私共夫婦それに、若夫婦という様に、三代続いておる。それを皆にも見て貰いたいというのではなかったでしょうかね。
 その写真をこれを入れたいと思うから、どうだろうと言うて、持って来ましたから。そりゃ止めときなさいと、私が申しました。でないとあんまり見せびらかすごたるち言う。その写真を改めて見せて頂いてから思うた。もう本当におかげ頂いておるもんだなぁと思いました。今その数年前は、どういう事であったかと言うとです。あんたが今のごたる状態ならば、それこそお四国参りでもせにゃならんと言うた両親が、それこそもう本当に福々しい様子でね。私共と一緒に、写真に収まって。
 しかも親子三代が写真に収まっておる、その写真を見せて頂いてです。成程親に不孝をして、神に孝行をしてそして後に、親に孝行をする氏子がある。その私は氏子であるなぁと自分で思うた。自分でする孝行じゃない。神様にさせて頂く孝行でなからなければ、本当の孝行は出来ない。と言うて両親を私が撫でさすりしげ行く訳でもない。毎日機嫌を取ってはぁお爺ちゃんお早う、お婆ちゃんどうかと言うて行く事もなぁんもない。
 けれども私が、両親の部屋に参りましてから、何時も思う事はここはいよいよ極楽部屋だなぁと思うのです。冬は暖かい夏は涼しい。暖冷房のきいたお部屋でです。何時もテレビを見たりお茶を飲んだり。しかもこちらにはないと言う様な物がね、両親の部屋にはあるんです。甘い物であろうが何でもあるです。皆さんが持って来て下さるんですね。お婆ちゃんお婆ちゃん、お爺ちゃんお爺ちゃんと言うて。いうなら百味の御食の中に生活をしておる両親を見せて頂いてです。
 なるほど自分のする親孝行てんなんてんち言うものは、底が知れとる。けれども神様がさせて下さる親孝行と言うのは、限りがない。そういう親孝行でなからにゃいけないという事なんです。これは、私が、人間をと言うことを、先にした訳ですね。信心を中心に、神様を中心にしたという事はです。いわゆる、真の人にならせて頂こうという事を、第一にしたという事。
 ですから、例えば、あれほど親孝行親孝行と言いながら、親に、食べ物も食べさせ切らんじゃないかと、言われた様な時代があるのです。その時代は、親に不孝をしてだけれども。それこそ、限りない、神様への孝行が、病むに病まれん思いでなされておった時だった。ですから、今度は、神様が、親孝行させて下さるという事になって来た。そしたら、もうそれは、限りがない。
 去年、一昨年でしたかね。父の八十八のお祝いがございました。そん時に、正月から、ずっと具合が悪くて、立ちも這いも、勿論出来んようになりました。痰を出すのも、自分の力で出来んようになって、難しくはなかろうかと言うた。少し、快方に向きましたから、ご信者さん方が集まって、八十八のお祝いは、こりゃ少し早めになさった方が良うはないですかと、言うて下さる方達があってましたけれども。
 やっぱり、誕生日にするのが、一番だと言うて、誕生日まで伸ばしましたが。誕生の時には、本当に、自分で自由も利く様になり、八十八の、皆のお祝いを、両親で受けられるだけの健康のおかげを頂いた。もう健康の事と言わず、あらゆる人間の幸福の条件の全てを、供え持って、本当に、この世の極楽ちゃこの事じゃろうかと言うようなです。私はこりゃオーバーじゃないと思うです。本当にそうなんです。
 孫に心配をする訳じゃなし、嫁に心配をする訳ではないと、私は思うです。勿論第一こげな良か息子がおり、息子に心配する事はなおさらない。本当に人間と身代と達者が足ろうたと。なるほど若先生が、これを今度の本の写真に入れると言うたのも、無理からぬことだと思うくらいに、おかげを受けております。それは家庭に於いては親に不孝をしてという時代があったという事。そして神様の方への心と言うか、信心によるところの人間作りという事に、一生懸命にならせて頂いたということ。
 私が昔から計算して来ておった計算は、皆が違うとる違うとると言うたけれども。何十年経ってみて、今日になったら大坪さんの計算法が一番間違いなかったと、皆が言うて来た訳です認めて来た訳です。ですから世の中に人間の幸せとか、平和とかと申しますけれども。その平和の根本になるものはです。幸せの根本になるものは、どの様に頭がよかっても、学問を身に付けても、どの様な教育を身に付けさせて頂いても、どの様に完備と思われるくらいな設備が出来ましてもです。どうにも出来ないものがある。
 そのどうにも出来ないというのが、心を中心にした生き方というものが、粗末にされておったという事になるのです。お互いは今その心の状態を、愈々ですまともな物にして行く事の修行を、現在させて頂いておるんだと思うて、それに精進しなかったら、金光様のあご信心をさせて頂いておっても、合楽に御神縁を頂いておっても、それは同じだという事です。人間がまず第一なんだ。お道の信心によって人間が出来て来る、人物が出来て来るなら必ずそれは、神のおかげが分かるようになる。
 神の大恩が分かるようになる。その神の大恩に対し祀ってです。神恩報謝の生活が出来る様になる。その事が幸せの根底をなすものでなからなければならない。それが根本なんだ。今金はなくても良い。今は不健康であっても良い。今は家庭が乱れておっても構わん。神に孝行をしておという所が、今出来ておるならばそれで良い。必ず金は恵まれる。必ず人間関係はスムーズに行くようになる。必ず病気ならば健康になる。人間と身代と達者が揃うて。しかも三代続く基礎土台というものを、今こそ作っておかなければならない時だという風に思うですね。
   どうぞ。